御由緒・御祭神

山イメージイラスト 山イメージイラスト

大阪平野の東、生駒山麓に鎮座する石切劔箭神社は、
「いしきりさん」と親しみを込めて尊称され、氏子崇敬者の皆様より尊崇を集めております。

社号の「石切劔箭(いしきりつるぎや)」は
御祭神の御神威が強固な岩をも切り裂き、貫き通すほど偉大な様をあらわしております。
特に加持祈祷、御百度参りは有名で、その御神徳を慕い
関西一円はもとより全国から大勢の方がお参りになられています。

イメージ画像
装飾画像

御由緒

物部氏の
祖神を祀る社

御由緒イメージ画像
装飾画像

石切劔箭神社御鎮座のご由緒につきましては、今からおよそ七百年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫がことごとく焼失したため詳らかではありません。

しかしながら、延長五年(927年)に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』の中には、既に「石切劔箭命神社二座」と記載されており、また延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』には、貞観七年九月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。

イメージ画像
昔の境内の様子(昭和六年以前)
イメージ画像
遺書伝来記

また、天文五年(1536年)に当神社社家の祖先、藤原行春大人(ふじわらのゆきはるうし)が社家に伝わる口伝をまとめた『遺書伝来記(いしょでんらいき)』によれば、“神武天皇紀元二年、現生駒山中の宮山に饒速日尊(にぎはやひのみこと)を奉斎申し上げたのをもって神社の起源とし、祟神天皇の御代になって「下之社(現本社)」に可美真手命(うましまでのみこと)が祀られた”とあります。

爾来、悠久の歴史を通じて、朝夕御皇室のご安泰と日本国の隆盛、並びに氏子崇敬者の皆様の無事繁栄をご祈願申し上げ、祭祀を継承し続けて今日に及んでおります。

イメージ画像
生駒山
生駒山
装飾画像

御祭神

饒速日尊
可美真手命

御祭神イメージ画像
装飾画像

当社は、天照大御神の御孫にあたる饒速日尊(にぎはやひのみこと)と、その御子である可美真手命(うましまでのみこと)の親子二柱の神をお祀りしております。

御祭神と神社の起源

十種神寶拝受図(奉納:阪野智啓)
十種神寶拝受図(奉納:阪野智啓)

饒速日尊は神武天皇の御東征に先立ち、十種(とくさ)の神宝(かんだから)を天照大御神よりさずかり、大和建国の任務を受けて三十二柱の武神や数多の職工の神を従えて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天降りになりました。

そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦(ながすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)(三炊屋媛)(みかしきやひめ)と結婚され、河内地方の開発に尽力されました。そして可美真手命がお生まれになりました。

饒速日尊降臨図(奉納:阪野智啓)
饒速日尊降臨図(奉納:阪野智啓)

その後年月が過ぎ、神武天皇が天下を治めるため東へと進軍された時、この地を治めていたのは可美真手命でした。
可美真手命と神武天皇は互いに天孫の証である天羽々矢(あまのははや)を示し合い、ともに天孫であることが明らかになりました。そこで命は長髄彦に天皇への帰順をお諭しになり、そして自らも天皇への忠誠を誓い、ここに大和の統一が成し遂げられました。
その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、天皇の側で忠誠に励んだのです。

神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。

御祭神と物部氏

饒速日尊、可美真手命の子孫はやがて物部氏となり、呪術や軍事を司る一族として天皇に仕えました。当時最先端技術であった鉄器の製造などを担い、モノづくりの精神を受け継いで大和朝廷を支えることとなります。

物部氏の「モノ」という大和言葉には大きく二つの意味があり、一つは正に「モノづくり」などと用いる場合の物体を表す意味。そしてもう一つが「モノのけ」などと用いる場合の、自然的、超自然的な霊的存在を表す言葉です。この両面を合わせ司ったのが物部氏でした。

物部守屋翁像
物部守屋翁像

モノづくりの神

我が国は世界有数の「モノづくり大国」と呼ばれるほどにモノづくりが盛んであり、昔ながらの製品を作る技術から最先端の技術まで、実に幅広い技術が集積しています。なぜこれほどまでにモノづくりが盛んなのか、それはその根幹に「モノには魂が宿る」という我が国特有とも言える精神が息づいているからに他なりません。

日本のモノづくりに対する情熱は、単に物を製造するという「営み」だけでなく、そこに精神的な「入魂」の概念を有するからこそ生まれるものです。そしてその「営み」と「入魂」の一体は、物部氏、そして饒速日尊と可美真手命にこそ、その源流があるのではないでしょうか。

当神社が鎮座する東大阪が「モノづくりのまち」となったのも深い御神縁を感じます。

生駒山
生駒山

病気平癒の神

饒速日尊は天照大御神より十種神宝を授かりこの地に天降られました。十種神宝は病気を癒し、失われた命をも蘇らせるものであったと伝わります。物部氏はその十種神宝を用いて天皇の鎮魂を司り、呪術の側面からも大和朝廷を支えました。

そのような御祭神の御事跡と物部氏の足跡から病気平癒の神様としても広く人々に信仰されるようになります。そして十種神宝の鎮魂は十種加持として連綿と受け継がれ、伝法(でんぽう)として現在まで社家に伝わります

イメージ画像

当神社の御祭神は「でんぼの神さん」として知られ、腫れ物などを治してくださる神様としても有名ですが、この「でんぼ」(関西の言葉で腫れ物)は、本来「伝法」であるといわれております。「伝法」とはすなわち、古来より社家に伝わる禁厭の秘法をさしており、これもまた当神社の境内から人の絶えることのない所以の一つであります。