文化財

御社殿・
   御神木

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石切劔箭神社の「本殿」「拝殿及び幣殿」「透塀」「絵馬殿」は、
令和七年三月に国登録有形文化財(建造物)に登録されました。
また、御神木は東大阪市の天然記念物に指定されています。

造営より長きにわたり氏子崇敬者の皆様の赤誠により護られてきた
御社殿や御神木についてご紹介いたします。

文化的・歴史的価値イメージ画像

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文化的・歴史的価値

現在の御社殿は昭和六年(1931年)に造営され、翌七年四月に御遷座が執り行われました。
そして令和十四年には御遷座から数えて百年の節目を迎えることとなります。
長きにわたり氏子崇敬者の皆様の赤誠により護られてきた御社殿の数々を健全な状態のまま、そしてより麗しい姿に整えて後世に引き継ぐべく、この節目にあたり修復工事を計画することとなりました。
その前段として様々な調査を行った際に、御社殿、そして絵馬殿が文化的・歴史的に大変価値の高いものであることが確認され、国登録有形文化財(建造物)へと登録されるに至りました。
ここでは、大きく2つ分けて御社殿の文化的・歴史的価値についてご説明いたします。

【御社殿の文化的・歴史的価値 (1)】 極めて上質な材料

御社殿には膨大な木材が使用されていますが、極めて上質な檜(ひのき)が主に使用されております。現在では手に入れることができないほどの大きさで、油分をよく含んだ木目のきめ細かな良質なものが惜しみなく使われています。
そのような木材は当時でも入手困難であったことは容易に想像されますが、恐らくこの造営に向けて長期間に亘り入手に尽力したものと思われます。

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そして天井や建具などの板類には大木からのみ得られる一枚板の杉が使われるなど、各所に良質な材が使用されていることにより、造営から百年を迎えようとしている建造物にも関わらず健全な状態が維持されており、御社殿の維持保全に大きく貢献しています。
また、錺(かざり)金具を木部材の要所に飾ることにより、建物の荘厳さをより引き立てています。当時でもあまり見ることがない上質な青銅製の金具を惜しげもなく使用しており、さらに御本殿や幣殿の内部には黄銅製の錺金具が使用されています。

そして御社殿の屋根の銅板は、桧皮葺(ひわだぶき)のように見せる特殊な波付きの銅板が大量に使用され、一文字葺(いちもんじぶき)や軒付(のきづけ)の割付は極めて細かく仕上げられています。
軒付とは、桧皮葺や柿葺(こけらぶき)などで軒先を厚く葺き重ねた部分のことです。銅板葺では、これらを模して同部分を通常は三段、五段、七段など奇数分割して葺くのですが、この割付が細かいほど手間と労力を要するのは言うまでもありません。当神社の御本殿や拝殿はこの軒付が十七段もあり、このことだけでもいかに手の込んだ作りであるかということが分かります。
ご参拝の際には是非ともご覧いただければと存じます。

【御社殿の文化的・歴史的価値 (2)】 技術力の高さ

もう一つ、文化的・歴史的価値が高い理由として、造営に携わった技師の技術力の高さがあります。
棟札から、御社殿(本殿、拝殿及び幣殿、透塀)の設計は吉田種次郎氏、建築工事は金剛治一氏が請け、治一氏の高弟である大野新一氏が工事監督を担当したということが判明しています。

設計の吉田種次郎氏は奈良出身の技術者であり、昭和二十七年(1962年)に国の重要無形文化財の「規矩術(きくじゅつ)」指定保持者に認定されています。また三十年(1965年)二月には多年の功績に依り紫綬褒章を受け、三十二年(1967年)十二月四日に勲五等に叙せられ瑞宝章を授与されています。
法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の解体修理のほか、数多くの社寺建築を手がけたことで知られています。

建築工事を請けた金剛治一氏は、明治から昭和にかけて金剛家(金剛組)当主(四天王寺三十七世正大工)を務めた人物です。金剛組は飛鳥時代に創業され、堂宮大工のすぐれた建築技法を受け継いできた世界最古の企業として知られています。

工事監督を担当した大野新一氏は金剛家に属しながらも、吉田種次郎氏と大正十四年(1925年)に出会い師弟関係となり、その六年後に吉田氏から右腕の「工事監督」に抜擢されたことは大野氏の力量を認めた証と考えられます。
尚、大野氏は絵馬殿の設計も担当しました。

彫刻師は大阪市の相野宇三郎氏。この家筋は江戸時代から著名であった、だんじりの彫物大工の相野流の分かれと伝えられています。

そして、棟札にみるその他の工種の担当は、驚くことに全て当神社の氏子地域の職方で構成されておりました。吉田氏が任せられるほどの技量を持つ人物が容易に近在にいたことは、いかにこの地が繫栄していたかを表しています。
使用されている材の質、職人の技術、そして何よりも氏子崇敬者の皆様の赤誠により、石切劔箭大神様をお祀りするに相応しい荘厳な御社殿が造営されたのです。

当神社の境内中心にある御社殿は、一つの建造物のように、またあるいは連結した一連の複合社殿のようにも見えます。しかし実際には、御本殿自体は基壇や屋根が独立しており、外壁のみを繋げた形式となっているのです。
大神様のお鎮まりになる御本殿は、人の出入りする建造物とは明確に区別するという意図が見られます。そして拝殿庇(ひさし)後方から延びた透塀が御本殿を囲っているという形式なのです。

本殿イメージ画像

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本殿

造営:昭和六年(1931年)

高い切石積の基壇に建つ御本殿の建築様式は「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」。この「三間社流造」とは、神社建築様式の一つである流造のうち、正面の柱が四本、柱間の間口が三間あるものを指します。
そして、妻面(つまめん:建物の屋根の頂上部分の向きに対して直角に接する側面)には亀甲紋の雨除が設けられています。

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亀甲紋の雨除

そして細部は鎌倉時代や室町時代に見られる中世の社寺建築を引用した意匠で美しく纏められています。
また、御本殿の正面には千鳥破風(ちどりはふ:屋根の斜面に設けた三角形の破風)と軒唐破風(のきからはふ:屋根の上部の一部分だけ盛り上げるように丸く折り上げた破風)が設けられています。

拝殿及び幣殿イメージ画像

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拝殿及び幣殿

造営:昭和六年(1931年)

拝殿はご参拝の皆様が拝礼する場であり、幣殿はお供えものをしたり、祝詞奏上など祭典奉仕を行う場です。そのため、石切劔箭大神様がお鎮まりになる御本殿と皆様が拝礼される拝殿の間をつなぐように幣殿が建てられています。

幣殿は拝殿身舎(もや)の背面に連結し、御本殿側は、屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした「両下造(まやづくり)」として御本殿の向拝(こうはい)軒下へ入り込む形で建てられています。
拝殿の屋根は、「入母屋造(いりもやづくり)」であり、千鳥破風が付き、向拝は向唐破風造(むこうからはふづくり)となっています。

「向拝」とは、御社殿の屋根中央が前方に張り出した部分のことであり、殿外から皆様が拝礼される場所(お賽銭箱や鈴緒が設置されている場所)を思い出していただければ分かりやすいのではないでしょうか。
そして「向唐破風」とは、屋根本体とは独立してつくられた唐破風のことです。簡単に申しますと、「拝殿の屋根には千鳥破風が設けられており、向唐破風造の向拝が設けられている」という形状になっています。
そして至る所に、数々の手の込んだ美しい彫刻や組物を見ることができます。

拝殿の千鳥破風と向唐破風造の向拝
拝殿の千鳥破風と向唐破風造の向拝
透塀イメージ画像

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透塀

造営:昭和六年(1931年)頃

透塀(すきべい)とは、中が見えるように設計された塀のこと。建物の屋根を含んだ三方を囲うことが一般的ですが、当神社の透塀は拝殿庇(ひさし)から後方へ囲うように御本殿背面柱筋(はしらすじ)で基壇にあたってとめているという特殊な形状になっています。
透塀の屋根は、庇の出桁(でげた)の端などを覆うための化粧板である「柄振板(えぶりいた)」で納めています。

各柱間は連子窓(れんじまど)を連ねており、御本殿側の柱間に框戸(かまちど)が備え付けられています。

連子窓
連子窓
絵馬殿イメージ画像

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絵馬殿

造営:昭和三十五年(1960年)

絵馬殿という名の通り、絵馬が奉納されている建物です。絵馬殿の設計は、吉田種次郎氏の弟子であり、本殿の工事監督も務めた大野新一氏。
かつては、御神木の西側、現在の祓所付近に「絵馬堂」がありましたが、昭和二十九年に残念ながら焼失しました。その後、新たにこの絵馬殿が造営されたのです。

絵馬殿は鳥居と御本殿の軸線上に建てられており、「門(楼門)」としての役割も担っています。
門としてはあまり類を見ない奥行の深い平面、そして両脇には饒速日尊が天降る際に護衛として付き従った随神の像が奉安され、更には屋根の中央には「剣(劔)」と「矢(箭)」を飾るという独創的な意匠となっており、まさに当神社を象徴する建物となっています。

切妻造りの四周に庇を廻した屋根の中央に剣と矢が立つ
切妻造りの四周に庇を廻した屋根の中央に剣と矢が立つ
絵馬と随神像
絵馬と随神像
御神木イメージ画像

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御神木

御神木「石切劔箭神社のくす」

当神社の御神木は樹齢約500年と言われており、幹の太さは約6メートル、高さ約18メートルにも及ぶ巨樹です。「石切劔箭神社のくす」として昭和四十九年(1974年)に東大阪市の天然記念物に指定されました。

古来より日本人は樹木や岩、滝など、自然には神が宿ると考え大切にしてきました。特に巨樹は御神木として、それ自体が信仰の対象となるほどに神聖視してきました。現在の当神社におきましても、この御神木に向かって祈りを捧げる方は後を絶ちません。

旧社殿が写るおよそ百年前の写真。と同じ場所に御神木があることが分かります
旧社殿が写るおよそ百年前の写真。
現在と同じ場所に御神木があることが分かります
絵馬と随神像

令和十四年(2032年)には御社殿が造営、御遷座されてから百年の節目を迎えます。
材の質や技師の技術力の高さによって、驚くほど健全な状態が保たれている御社殿ではありますが、
やはりこれだけの長い年月の経過の中で、風雨により傷みや破損、劣化が進んでいる箇所が多数存在します。

今後も引き続き大切に維持するとともに、来る令和十四年に向けて修復工事計画を進め、
先人たちが大切に護ってきた御社殿を未来へとつないでまいる所存でございます。

皆様におかれましては、引き続き当神社にお心をお寄せいただけますと幸いでございます。